Category / 京都で過ごした学生時代

紫陽花の露に太陽が注ぎ、夕方の麦酒がこよなくおいしい季節がくると
京の町にはコンチキチンが聞こえてきて、鉾建てがはじまります。

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* * * * * *

学生時代の4年間を京都で過ごしたことはこれまでに書いてきました。
葵橋の東詰め、糺の森に下宿することになった私は、何を勘違いしたのか大学に入学したことで目的を達成したかのように小説を読み耽りJAZZを聞いては昼夜逆転の生活に没頭した。
朝になると下宿の裏の風呂屋の横丁から鴨川に出て朝の空気を贅沢に吸い込んで就寝するという生活ぶり。
夕方になると近くの焼肉中華屋さんで焼肉の鉄板を磨いたり、餃子を包んだりして
サントリーホワイトを呑んでいた。今思うと二十歳前の分際でなんと優雅なことか。
バイトが終わるとKBS 京都放送の諸口あきらさんのラジヲを聴きチビチビと。
夜中にも拘らずギターを弾いては下宿仲間に聞いてもらっていました。
その頃は布引のサイフォンコーヒーを点てては今夜は旨いなどと悦に入っていたから可愛いもののです。
面白いもので温度や時間や豆の種類でこんなに変わるものかと言うほど味が違って面白かったのを覚えています。

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そういう学生生活が始まって暫くするとチェリッシュというデュオが「なぜに貴方は京都に行くの」というまったく迷惑な流行歌をうたって猫も杓子も京都に行くという社会現象が生まれてきました。
お陰で友人知人が京都を案内せよという機会に恵まれ、京都駅から2番の市電で東山を回りお決まりのおコースを案内することもルーチン化したこともありました。
 その頃にもう少し女性の気持ちを理解できる心を持ち合わせていたらなぁと未だにシャイな自分を省みるのであります。
たぶん哲学の小道沿いにあった金福寺というお寺の庭が、nori観光のお薦めで
そこの縁側に腰掛けては色んな話をアーデモナイコーデモナイ、そやそやと話した思い出があります。
それから南禅寺の水路閣を回って三条で夕食というワンパターンでしたが相手の方は常に一見さんでしたから喜んでくださいました。
本命だった彼女は誰かの嫁はんになりました。
懐かしい思い出話も無いではありませんがさらっと話を進めます。

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そんな生活は楽しくもありなすが、慣れというのは恐ろしいもので次第に「これでいいのか」と自答することになって参ります。

 父親が学校から呼び出され「息子さんは学校に来ていません。このままでは進級が困難です」といわれたと下宿の黒電話がなったときには、ハッ!として必須の語学だけは受けるようになりました。
今ご縁を頂き大変お世話になっている大阪のセンセとたぶん広小路にある研心館ですれ違ったのはこの頃だと思います。
 当時のボクはフォークソングが命の頃で、フォークソング同好会というサークルに入れてもらい女性一人と男2人の3人グループを組み、明けても暮れても「幻の翼とともに」とか「これが僕らの道なのか」を練習していました。
当時は未だコピーバンドが主流で今のようにオリジナル曲を歌う人は珍しい頃でした。
シンガーソングライターのかかりで吉田拓郎さんや武蔵野タンポポ団の高田わたるさん、プカプカのディラン2が出ていた頃であります。

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 そうそう、そろそろ祇園祭の季節です。
宵々々々山の話がでてきます。一回生二回生の頃は四条河原町にある高島屋屋上のビアガーデンでバイトしていました。
三回生からは前述の中華焼肉店の屋上で大文字の送り火をみなが中華焼肉店の屋上で大文字の送り火を観ながらビールを下からもってきてゴクリとやっていました。
送り火の時間帯はお客さんはお見えにならないものでして。
終わってからそりゃ地獄の3時間が続くのです。ユニホームの白衣はビチョビチョでラーメンの汁なんかがかかっていますが知ったこっちゃ無い状態です。
 この頃は写真なんか興味のキョも無いころでしたが、今思えば随分美味しいシーンに出くわしていたと思います。

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祇園あたりにて(2006~08)写真5枚ともFA 77mm F1.8 Limited
Pentax istDS 10D 20D で撮影、istDS の描写が一番京都に似合うように思います


随分更新していないのですが、有難いことに続きは未だかと言うコメントを頂くことがあります。
お調子者のブログ管理者はこういうご声援に敏感に反応する実にわかりやすい習性がありますのでお含み下さると助かります。
この辺で続きは次回と言うことで


京都第3章

高校を卒業し郷里から京都に向かうときの事を書いておかないと忘れてしまいそうです。当時の荷姿は、蒲団袋と柳行李と言うのが定番でした。(オレだけ?)
もちろん単身宅配パックのようなものはありません、引越し荷物を「チッキ」で送ります。この「チッキ」と言うのはJRが国鉄の時代に運用していたサービスで、乗客が移動する際の荷物を別の貨車便で運んでくれると言うもので、出発駅に乗車券と荷物を持ち込んで薄っぺらな預かり証明書を受取り、到着駅で荷物を受け取るという便利なシステム。たぶん、そうしないと客車中が荷物だらけになるほど、当時の乗客の荷物量は多かったのだろう。

そのため帆布のように頑丈でガサガサの布製蒲団袋(たぶん赤玉フトン袋)のなかに、
家長の次に上等な蒲団一式と毛布、シーツと枕に夏用のタオルケットをいれてもらい、
その隙間に割れないように新聞紙で養生したお茶碗とコップなどを入れた。
柳行李には、楽譜や辞書と母が買ってきてくれたラーメンなどを詰め込んだ。

「そうか!」
柳行李が定番だったのもこの鉄道輸送の影響なのか。なにせこやつはガッチリ頑丈にできており、多少の荷重が上に掛かってもびくともしない作りだ。現在(いま)の貨車と言うと産業用のイメージが強いのだが、トキワキなどの符合で呼ばれる貨車があり、その中にはそれぞれの思いがいっぱい詰まった荷物がかさ高に積まれていたのだ。
因みにチッキはチェックが変化したものだと覚えている。

その後に揃えた数少ない電気製品は、電気ポット・電熱器、電気スタンドで入学してから学生生協で調達したもの。(あとの電化製品は持参したパナソニックのラジオと親爺のお古のブラウンだけかな?)それなのに何故かサイフォンがあったりした。珈琲はイノダに限る、とか云って嬉しがっていたものだ。(百万遍の近くにあった進々堂の椅子やテーブルの大きな創り、なにより珈琲が美味しかった。)
この電気ポットは、下宿で皆が使うとブレーカーが直ぐに落ちるのだけれど、お茶や紅茶、ラーメンを食べるのにとても重宝したものだ。

京都第3章

 
高校の卒業式が終りそれぞれの仲間が旅立っていくたびに、クラスメーツは夜行列車(寝台特急☆彗星)の出発する時間、駅に集合して見送った。だけど最後の友達は誰が見送ったのか聞いたことが無いな(^o^)丿
実は、この駅こそが伊勢正三の「汽車を待つ君の横でボクは、時計を気にしてる」の舞台とされる駅なのである。この唄の君は東京から切なく去って行くのだが、その後ボクは加川良の「京都の秋の夕暮れがダッフルコート無しでは寒いくらいで」と独白しながら、デザートブーツとジーンズでギターケースを抱えて河原町を歩くようになった。

第2章で、バイトの事に触れたけど、そのことを書いておきます。
最初は京都高島屋の屋上ビアガーデンで白衣の上着を着てビールジョッキ運びをしていたのだが、特大ビアジョッキ6杯も持つとこれはメチャクチャ重く、酔っ払いお客さんの接客が不慣れで直ぐに厨房に入った。そこでは枝豆を茹でたり、トマトを6Pに切って半分皮をむきサラダ用の仕込みをしたり、サンドイッチ作りなどをしていた。
でも、時給があまり良く無いのと夏場しかない仕事だったので、葵橋東詰にある焼肉中華屋さんで(最近確認したら今もありましたよ)働くようになった。どうしてココに勤める事になったのかはっきり覚えていないのですが、たぶんバイト情報誌か張り紙を見て飛び込んだのかもしれません。

当時この店は、家族全員が働いており、おばあちゃんと息子夫婦、そして3人の息子が交代で朝11時から26時頃までの営業で、ボクはお昼前から夜までの間随時に手伝っていました。近くには家庭裁判所や空手道場があったのて結構繁盛していました。

まだまだたぶん続く^^;

京都第3章


「お迎え提灯」祇園祭 
お迎え提灯


セメント工場とみかん作りが産業である九州の田舎町で育ったボクが
どうして京都に向かったのかと言うと、当時はフォークソングが流行っていたからなのである。
フォークソングと言えば、北山修や加藤和彦と言う年代もいるかも知れないが、ボクらのころにもう彼等はビートルズのような存在になりかけていた。

ボクは友人の影響で西岡たかしが大好きで
「まぼろしのつばさと共に」や「これがボクらの道なのか」などを、市民会館のステージで唄ったものだった。
ボクはそんなに唄が上手いほうではないのだが、メインVo、メインGt担当の友人は
(つまりボクがサイドVoサイドGt)、メッポウ甘く高い声でCBSソニーにスカウトされた。
彼は呉服屋のあととりでハムレットの心境で「唄を唄うべきか家を継ぐべきか」悩んだ挙句、あととりを選ぶことになった。

祇園祭の頃には、京都円山音楽堂で宵々山コンサートがあり、高石さんや加川、高田渡さんを目の当りにしてコーフンしたのだものだ。(吉田拓郎は来たんだっけ?)。
フォークソングが好きで「京都に行きたい」という誠に不純な動機で学校を選んだわけなのである。
そんなことで高校の先生からは難しいと言われたのだけれど、同志社と立命を受けて立命に行く事になっちゃったと言う訳。

お迎え提灯
宮本組


当時、学び舎は衣笠、部活は広小路という学生生活を送っていたのだ。
衣笠にある学舎に行くには、市電で糺の森から北大路を走って、烏丸車庫前で乗り継ぎ券をもらってわら天神で降りて通い、帰りは北野白梅町でパチンコをして帰るか、上七軒にある友人宅(正確には老松町)でギターを弾いたりサイフォンコーヒーを飲んだりした。
広小路で部活があるときは、衣笠からスクールバスが便利で、
生協で買った格安の回数券(たぶん一枚5円くらいだったと思う)で、国際モータースのスクールバスに乗っていった。
広小路学者の近くにはJAZZ喫茶シャンクレール、河原町まで歩けばマンホールがあったりした。河原町に歩いて行く途中には丸善があって、よく梶井基次郎を気取って檸檬を置く真似をした。(田舎育ちの青年には精一杯のパフォーマンスだったかもね)

こんな風に書くと真面目に通学したように見えるけど、実は必修を4回生まで持ち越して卒業が危うかったりした。
もっぱら下宿で小説を読み漁ったりJAZZを聞いたりして朝まで過ごし、夕方からバイトに出かけるというホステスさんのような生活をしていたのだ。バイトのお金はサントリーホワイトと食パンとオーディオに消えた。

記憶は定かではないのだが、ダイヤトーンのDS-251mkⅡをパイオニアのアンプで鳴らし、ビクターのターンテーブル、トーンアームAテクニカの先にデンオンのMC式カートリッジDL-103(?)やシュアV-15typeⅢを付けて、長岡鉄男さんの言いなりに位相がどうとかブロックがどうとか言いながらボコボコの下宿屋で聞いていたのだから笑っちゃう。

たぶん続く^^;

下鴨神社

京都市左京区下鴨宮崎町54

今でも30数年前の下宿先住所がスラスラと出てくるのが自分でも面白い。
友達から毎週のように届く手紙には、この宛名が蒼い細書きのパイロットで端正に書かれており、その文字を幾度となく眼で追った。

友禅絵付け職人さん宅の二階が僕の下宿だった。
河原町から葵橋経由植物園行き5番電車「糺の森」電停から西に入ったところがここの住所。
「ガラガラッ」と格子戸を開けると二間ほどの石畳があり、左に蹲(つくばい)、右におじさんの職場があり、京の町屋よろしく奥に長く広がっていた。
ちょっと足の悪い友禅職人のおじさんは、朝から晩までいつもこの部屋で色付けをしていた。
小太りのおばさんは、優しい人で「小野さ~ん電話ですよ~」と2階に声をかけて気安く電話を取り次いでくれた。
黒く重いダイヤル式の受話器の向こうから聞こえてくる声に一喜一憂したものだった。
それでも足りないときはレッドの大瓶に貯めた10円玉をジャラジャラとポケットに詰め込んで糺の森電停近くにある公衆電話ボックスに話しに行った。
この公衆電話は時々10円玉が一杯になりいくらでも話せる状態になった。

下宿の部屋は、2階に在る4部屋と一番広い六畳間をベニヤ板で仕切って二部屋にした合計6部屋で、最初ボクは仕切った部屋の奥のほうに下宿した。
隣に住んでいる京産大の一回上級の人が、新聞を読んでいるか辞書か漫画なのか紙質で聞き分けることが出来た。
1階にあるトイレは大家さんと共同で2階には洗面台が一つあるだけ。
ここで水を汲み電気ポットで湯を沸かしチキンラーメン主食の毎日だったがそれほど貧しいと思ったことは無かった。
仕送りが届いたときは奮発し隣の下鴨飯店でレバもやし定食と焼き餃子や洋食屋のらくろでトルコライスを奮発した。
風呂は二日に一回の割合で、近所の風呂屋に行った。
かぐや姫の神田川じゃないけど風呂桶を抱えて通い、石鹸箱が本当にカタカタ鳴った。このころは洗髪料金を別に支払った。
パチンコで勝つと風呂帰りに赤提灯で大根の炊いたのとゴボ天をあてに麦酒を一本飲むのがこの上ない贅沢だった。

続く
(もう少しスッキリした文章にせなあかんな)

学生時代